第8回JALSA講習会交流会新潟大会記念講演
(2003年9月14日・朱鷺メッセスノーホール) 

<ALS患者さんのノーマライゼーション>

新潟大学神経内科教授
                              西澤正豊先生

<はじめに>
 皆さんおはようございます。
 第8回のJALSA講習会交流会の開催を心からお祝い申し上げます。このような機会をいただいて、皆さんにお話が出来ることを大変光栄に思っております。
 今日のお話の題名は、「ALS患者さんのノーマライゼーション」とさせていただきました。私がこの三月に新潟大学に赴任致しましてから程なくして、若林さんがお出でになりまして、9月に新潟で開かれる交流会でお話をするようにご依頼がありました。若林さんは「難病と在宅ケア」という雑誌の2000年1月号に書かせていただいた「ALS患者さんのノーマライゼーション」という題のエッセイを読んでおいでになったのです。こういう短文を新潟で読んで下さっていた方がおいでになることにまず驚きました。それで、そのまま今回のお話の題名とさせていただいた次第です。
 今回のお話は実は理念についてのお話です。患者さんの会とか、訪問看護婦さんや難病ヘルパーさんのための講習会とかでお話をする場合にいつも思うことなんですけれども、今日この会場に全国からおいでいただいている患者さんやご家族の方に対して、お話をする内容ではないのではないかと思います。皆さんにとってはもはや自明のことでしょう。残念ながら今日はお出でになれなかった患者さんやご家族の方、あるいは私と同じく医療福祉の領域に働いていて、違う考え方、違う価値観に立つ人たちにこそ、お話をしたい、あるいは聞いていただきたい内容なのです。今日は患者さんやご家族以外にも、沢山の方がおいでになっていると伺いましたので、敢えてこういう内容のお話をさせていただくことに致しました。

<ALS患者さんとの関わり>
 ご紹介にありましたように、私は1990年秋に栃木県の自治医科大学に赴任致しまして、そこでALS患者さんの医療に直接携わるようになりました。何人もの患者さんにお目にかかる機会がありましたけれども、何人か忘れられない患者さんがあります。私とALS患者さんの関わりというところからまず、お話を始めさせていただこうと思います。

 1991年の春、今からずいぶん前のお話ですけれども、当時まだ30歳前半の若いお母さんが私どもの病院に入院してみえました。最初は筋肉の病気であるということで治療をしていましたけれど、2ヶ月経っても3ヶ月経っても、症状は良くなるどころか、どんどん進行して、筋肉の力が落ちていってしまいました。そこでもう一度見直してみて、残念ながらALSであるという結論になりました。患者さんは症状が始まって半年後には、息が苦しい、呼吸が苦しいという症状が出始めました。私は随分前ですけれど、新潟柏崎の国立療養所で筋ジストロフィーの患者さんたちと3年ほど生活をさせていただいたことがあります。そこで人工呼吸器を使う方法があるということを経験しておりましたので、患者さんやご家族の方と、人工呼吸器について色々お話をしました。患者さんの旦那さんはいわゆるお婿さんで、ご家族の中であまり発言権がなかったようです。3人のお子さんはまだ小さくて、一番下のお子さんはまだ1歳くらいでした。そこで、患者さんの御両親が話し合いでは前面に立っておいでになりました。私は患者さんのお父さんからお返事を伺って、正直耳を疑ったのですけれど、「娘のことは諦める」とお父さんは仰有いました。自分たちはこれからも生きていかなければならないし、娘の介護のために更なる重い負担には耐えられない。このままでは共倒れになってしまう。娘の子供たちの面倒は私たちがみるので、娘のことは諦めますと、ハッキリと言われたわけです。私は「わかりました」ということは出来ませんでしたので、その後も色々お話をしている間に、残念ながらどんどん症状が進んでしまい、お話をしてから2週間くらいで呼吸が充分出来なくなって、お亡くなりになりました。

 こういう経験をして、このままではいけないと思ったわけですが、実際に具体的にどうしたらよいのかという取り組みをはじめる前に、次の患者さんが入院にみえました。これは1992年の2月だったと思います。40代半ばの男性でした。当時としては珍しいことだったと思うのですけれど、患者さんが何年か前にALSであるという診断を受けた時の担当医が、「旦那さんはこういう病気ですから、奥さんが仕事につかれた方がよい」とアドバイスをされたのです。そこで奥さんは宇都宮市内の病院で働くこととなり、高校生、大学生の息子さんと4人で暮らしておいでになったわけです。患者さんは私が拝見した時にはもう、手は全く動きませんで、足は棒のようでした。すでに声を出すことができなくなっていて、お話はできませんでした。食事を口から食べることもできなくなっていて、チューブを使って流動食を入れておいでになりました。そういう患者さんが肺炎になってしまい、呼吸が苦しいということで私たちの病院に緊急入院してみえたのです。
 私はかなり病状が重いと思ったので、人工呼吸器のお話をしなければいけないと思ったのですけれども、幸い抗生物質治療に反応されて、肺炎が治ったので、お家にお帰りになるということになりました。その時はじめて、患者さんが入院される前の3ヶ月、4ヶ月の間、ご自宅でどういう生活をしておいでになったのがわかったのです。それは朝8時頃に、ご自分の居場所が決まっていて、そこに横になるのです。そうすると後はもう寝返りをうつこともできず、ご自分では何一つできることがなく、テレビの前で過ごすのです。奥様は仕事に、息子さん二人もそれぞれ学校に出かけられるので、日中はただ一人で、誰もいない中で飲まず食わずです。一番最初にお家に帰ってこられるのは、夕方五時半頃に確か高校生のお子さんで、それまで全く飲まず喰わずだし、排泄の介護も誰もしてくれません。オムツをしてらして、それが濡れればそのままで誰かが帰ってくるまで我慢するしかないという状況だったのでした。
 それでもこの患者さんは、お自宅に帰りたいということを強く希望されました。しかし、半年前の患者さんの経験もありましたので、私はやはり「そうですか」と言うわけには行きませんでした。当時からALSは特定疾患に指定されていて、保健所が窓口になって認定手続きができましたので、そこでまず宇都宮の保健所に参りました。宇都宮市民のこういう患者さんが今度退院してみえて、在宅で生活をしていきたいというご希望なので、是非支援をしていただきたいとお願いしたわけです。自治医大という看板を持って行ったので、保健所の所長さんと指導課長さんが会ってはくれましたけれど、私の話が在宅生活への支援のお願いであるということで、「それは保健所の仕事ではありません。市役所の仕事ですから市役所へどうぞ」と市役所を紹介されました。
 そこで、私はその足で市役所へ参りました。市役所の担当の係りの人とお話をして、そのとき言われたことが2つあるのですが、今でも非常に良く覚えています。1つ目は、「何でですか? その患者さんはALSという病気なんでしょう? それも一人では家にいられないくらいの状況なんでしょう? 何でそういう方がお家に帰ってくるんですか?」と。「病気なのだから、病院で面倒をみるべきではないんですか?」というのです。2つ目は、「奥さんがおいでになるのだから、奥さんが仕事を辞めて介護にあたられたらいいじゃないですか」と。それで、「患者さんがお家に帰ることを望んでおられるわけだし、こういう状況で奥さんが仕事を辞めてしまえば、その家の収入が無くなってしまうわけですから、それでは子供さんたちが学校に通い続けることも出来なくなってしまうでしょう」と反論をしたのです。そうすると行政の方は次に、責任問題を持ち出すのです。「仮にお手伝いに行くとして、市役所の職員が家族の人がいない状況で患者さんのお宅にお邪魔した時に、もしも万一何かあったら、誰が責任を取ってくれるんですか?」というわけです。
 その後も何回も市役所や県庁へ参りました。それでようやく最終的には、お昼時の12時から1時までの1時間ですけれども、市役所から看護婦さんとヘルパーさんが1週間に4回、患者さんのお家に行って下さって、それで流動食を入れる、体位を変える、排泄の介助をする、ということがなんとかできるようになったのです。

<在宅療養の理念を求めて>
 その時から、ALSの患者さんが在宅で療養したいと意思表示をした時に、どうしたらそれを関係の人たちに理解してもらえるのか、どうしたら皆にサポートしてもらえるのか、そのためにはどういう理念が必要なのか、ということを真剣に考えるようになりました。
 当時は、医療側の医師あるいは看護婦さんたちは皆、自分の価値観で行動していました。専門家としてトレーニングを受けて、色々な経験を積んで、沢山のALSの患者さんに接し、呼吸器をつけている患者さんも診てきて、こういう状況の患者さんについて、医師が書いたものがいくつもあるのです。それを見てみると、「一生病室の天井を見て暮らして、それで本当に患者さんが幸福かどうか? そういうことはすべきでないのではないか」というふうに書いてあるものが多かったのです。あるいはまた、こういう状況の患者さんが在宅で生活するということを、医療側がやらせているとも言われました。私も、「私の意見を患者さんに言わせている」と言われたものです。「そうではない。患者さん自身の希望なんだ」ということを理解してもらうことが非常に大変でした。
 行政はといえば、これは先程お話したように、家族がいるなら家族が面倒を看るべきだと。それから責任問題については、「こういう責任は負えない」という対応です。
 一般の方はどうかというと、丁度同じ頃に筋ジストロフィーの患者さんが宇都宮においでになったんです。大学生でしたが、大学に通うためには人工呼吸器が必要になりました。生憎その時お父さんが悪性の病気で入院されていて、経済的に非常に苦しく、人工呼吸器をご家族では用意できない状況でした。それではということで、高校の同窓会が中心になって、人工呼吸器を購入するための募金活動が始まったのです。その時にも一般の方から、あまりここでお話すべき言葉ではないかもしれませんけれども、「それまでして生きたいのか?」と。そういう意見もあったのです。
 こういう医療者に対しても、行政に対しても、一般の人たちに対しても、ALSあるいは筋ジストロフィーの患者さんが自分の家で、地域で生活をしたいと望まれた時に、どうしたら皆納得してくれるのか、希望が叶えられるための論理はないのかと、その時は真剣に探しました。

 1991年というのは「国連障害者の10年」という、国際連合が10年間にわたって繰り広げてきた一大キャンペーンの最後の年でした。その10年間の活動の理念がノーマライゼーションという考え方だったのです。日本では、この運動が始まった時は殆ど反応はなかったようですけれど、最後の一年は今年が最後ということで、いくつかのイベントがありました。私もノーマライゼーションという理念をその時初めて知りました。正直申し上げて、「これだ! これしかない!」と思いました。この理念を皆さんがよしとしてくれれば、きっとうまく行くのではないかと思ったのです。

<ノーマライゼーション>
 ノーマライゼーションというのはどういうことか、今日ここにいらっしゃる皆さんに改めてお話しする必要はないと思いますので、簡単にお話することにします。ノーマライゼーションとは、ノーマルにすることです。ノーマルというと、よくアブノーマルという言葉が先に出てしまいますが、アブノーマル(異常)に対するノーマル(正常)という意味にしばしば誤解をされました。英語の辞書を見て頂くとわかりますが、ノーマルというのは、普通の、当たり前のという意味の言葉なんです。
 ノーマルにすることというのは、普通にすること、当たり前にすることです。では何をノーマルに、誰がノーマルにするのでしょうか? ノーマライゼーションという言葉はもう医師の国家試験にも出題されているように、常識になっているんですけれど、つい最近、新潟大学医学部の5年生に講義をして、この言葉の話をした時に、医学部の5年生ですから、卒業まで後1年にというレベルの学生なんですけれども、半分以上の学生はこの質問に答えられませんでした。ですから、この言葉がこれからお話するような内容で、本当はもう定着していなければならない状況であると思うんですけれど、実はそうなっていないのです。一番関わりが深いはずの医学部の学生であっても、まだこのレベルだということを再確認して、まだまだ道が遠いということを改めて思いました。

 ノーマライゼーションの主体は患者さんです。患者さんが当たり前にするんです。何を当たり前にするかというと、これは生活を、生活環境、生活状況を、普通に、当たり前にするということです。地域には色々な人たちが共同で生活をしています。赤ちゃんもいれば、お年よりもいれば、健康な人もいれば、病気の人もいます。それぞれがどんな状況の人であっても、その地域でその人と同じ世代の人が皆、普通に、当たり前にしていることであれば、どんな状況の人であっても、それが可能な限り同じようにできるように生活環境を整えようという考え方なのです。
 では、生活を可能な限り同じようにできるように、その条件を整えていこうということを、誰がやるのでしょうか? 日本ではこれまで、例えばパラリンピックのような場面で、障害者が活躍すれば賞賛されてきました。障害者が自分の努力で、ある成果を上げると賞賛されるというのは、これは日本だけでなく、世界共通の現象かもしれません。逆にいえば、そうしなければ評価されないのです。でも、自分だけが努力するのではないんです。当たり前の、普通の生活環境を整えるということを、地域社会が、そういう人たちが住んでいる地域社会が、責任を持ってしようという考え方がノーマライゼーションの基本です。これは、1950年代にデンマークで、知的障害者の処遇に直接関わっていたバンク・ミケルセンというお役人が提唱し始めた考え方であるとされています。これが世界的に広がっていって、「国連障害者の10年」の「完全参加と平等」というスローガンになり、それが回り回ってやっと日本にもやってきたのです。

 皆さんはリハビリテーションという言葉もよくご存知だと思います。では、リハビリテーションという言葉のもともとの意味をご存じでしょうか? リハビリテーションというと皆さんは、病院の中の一室で、平行棒のような道具があって、その間を杖をついて患者さんが歩行の練習をしている、というような光景を思い浮かべられることでしょう。でも、あれだけがリハビリテーションではないのです。リハビリテーションとは、もともとは「しゃばに戻る」という意味でした。昔、中世のヨーロッパに教会という権威があって、教会に対して何か悪いことをすると、破門されてしまう。日本でいえば村八分ということでしょうけれども、それを許されて、元の社会に戻ってくる、「しゃばに戻る」というのがリハビリテーションの語源だといわれています。文字通り、障害を持った人がトータルに、その生活を回復することなのです。リハビリテーションの分野では、全人間的復権という言い方をしていますけれど、基本的な理念は全人間的復権です。障害を持った人が生活の主体者として、自らがその主人公として、地域で可能な限り普通な生活をしていくための、そのための総合的なプロセス全体がリハビリテーションなのです。ということは、ノーマライゼーションという理念を具体的に実践していくための方法論がリハビリテーションなのです。

 もう一つ非常に大事なことは、その時に主人公は誰かということですが、これは患者さん自身です。患者さんが主人公なのです。後で中島先生からお話が出るかもしれませんが、自己決定(オートノミー)という考え方を持って頂きたいと思います。主人公はその患者さんに関わる医師でもなし、行政でもなし、社会でもなし、患者さん自身なのです。自分の人生、自分の生き方は患者さん自身が決めるべきなのです。それはみんな一人一人違っていて構わない。このように多様な価値観を認めるということが、実はノーマライゼーションの背景にある非常に大切な考え方です。

<公平と公正>
 ノーマライゼーションという考え方をもし実践していけば、本当は一番重い患者さんに対して、色々なことに一番困っている患者さんに対して、最も手厚い対応が用意されるはずなんです。ところが、栃木の県庁や市役所での話し合いの中で、行政の担当者から言われたことなんですけれども、「行政のやることは」と私が話すとまた行政への悪口になってしまうんで、行政の方にはごめんなさい。「行政がやることは、広く、浅くが良いのだ」と言われました。広く浅く施策が良い施策というのは、例えば敬老の日が近いですけれど、敬老の日に70歳以上の方に一律に、例えば一万円のお祝い金を差し上げる。これは最高にいい。けれどもALSの患者さんが在宅で生活したいという時には、色々な道具を用意しなければならないです。ベットが必要かも知れない、呼吸器が必要かも知れない、意志伝達装置が必要かも知れない。それでは何十万という費用が必要でしょう。それは特定の個人に手厚すぎて不公平でしょうと。行政がやる事業としては、不公平になるので良くないというのです。
 しかしこれは、ノーマライゼーションとは対極にある考え方です。皆に一律に同じだけ積み上げても、一番下にいる人たちは依然として一番下にいることに変わりありません。ですからそうではなくて、皆に全く平等ではない、公平ではないかもしれないけれども、皆が可能な限り同じ生活レベルになるためには、上にいる人は下にいる人のために、一緒に生活する地域社会として協力しましょうという考え方が必要なのです。そうでなければ、一番下の人たちはいつまで経っても一番下にいなければなりません。それは、行政の方が言うようには公平ではないかもしれないけれど、そう考えるのが公正だというのがノーマライゼーションの考え方なのです。
 つい先日も、厚生省の元の疾病対策課長さんに会いました。色んな疾患に対するこの国の対応を決定する権限を持ったお役人だった方です。その時のお話ですが、厚生省のお役人には沢山の大学から色んな教授が尋ねてきて、自分が専門としている領域の病気について、これは本当に重要なのだから是非、国として対策を立てて欲しいという陳情を沢山受けたのだそうです。けれど、「みんな世間知らずですね」と。「自分の病気が一番大事だと思っているけれど、そういう考え方だけでは厚生省はやっていけないんですよ」と。それではどういうものが大事なのかというと、「沢山の患者さんがいる病気が大事だ」とはっきり言われました。私はまた違うと思ったわけですけれど、こういう考え方が行政の中には依然として根強くあるということです。

<障害者基本法の成立>
 ところが、平成5年ですから1993年12月、この国に突然法律ができたのです。「障害者基本法」という法律です。何故こういう法律ができたのかというと、私は戦後の民主主義と同じで、残念ながらやはり外圧だと思っています。国連障害者の10年という事業をやってきて、日本には基本になる法律がないではないかというなったのだと思います。基本法というのは、今教育基本法を改正すべきかどうか色々議論があるので、ご存知だと思いますけど、その分野で一番基本となる考え方、理念を決める法律なのです。障害者基本法を作るということは、これから保健、医療、福祉の分野をどういう理念の下でやって行くかということを決めて、これを基にあらゆる仕組みを決めていくということですから、一番基本的な、一番基になる理念を定める法律なのです。ところが残念ながら、こういう理念が如何にあるべきなのか、ということを真剣に議論をしたというふうにはみえません。世界的に国連障害者の10年のスローガンであったノーマライゼーションの理念を取り入れなければすまない周囲の状況があって、これをそのまま法律に取り入れたのだと思います。
 何はともあれ、平成5年12月に障害者基本法という法律ができて、その法律の基本理念として、ノーマライゼーションを取り入れてからは、患者さんの処遇について行政の窓口に支援をお願いに行っても、何故こういうことが必要なのかを説明する必要は全くなくなってしまいました。厚生省は、今度はそれが当然のように現場の各県市町村にノーマライゼーションという考え方を前提にした施策を降ろしてくるようになりましたから、現場の窓口の職員がたとえ違う見解を持っていたとしても、いちいち説明をする必要はなくなったわけです。それがまだ、ほんの10年前のことなのです。
 この国ではその時まで、この保健・医療・福祉の分野で一番基本的な理念を持たなかったわけです。その理念を10年前に手にして、これがあまねく皆さんの共通理解になっているかどうか、今日のお話の中で私が一番こだわりたいところは、実はこの点にあります。この理念さえ共有されていれば、ALSの患者さんはノーマライゼーションを実現できるというふうに思っています。

<現実>
 では実際はどうでしょうか。その後も沢山のALSの患者さんにお目にかかってきました。お父さんがALSであるということが判って、東京で働いておられた娘さんが仕事を辞めて戻ってみえて、お母さんと二人でお父さんの介護にあたり始めた方があります。それからもう7〜8年経ってしまいました。お嬢さんは30の半ばを越えてしまいました。お父さんのためにといって始められたことですけれど、それで本当によかったのかどうか。お嬢さんには自分の人生がなかったのかどうかとも思います。
 また、70歳に近かったと思うのですけれど、お母さんのために仕事を辞めて在宅で介護を始められた息子さんもあります。その方も7年ですね。後で息子さんとお話をしてみると、始めた時はほんの1、2年のことだと思ったと、それが7年にもなってと言っておいでになりました。
 現状ではやはり家族の方に介護を依存せざるを得ないわけですから、もし患者さんが在宅でいて、家族の方は仕事に行ってということになりますと、介護にあたって下さる方をどこかから頼まなければなりません。40代半ばのご主人が発病されて奥様が働きに出られて、在宅で呼吸器をつけて、まだまだ小さい子供さんの成長を一緒に見守りたいというご主人の実のお母さんが、地方から出てみえて介護にあたり始められた。たぶん心労、過労だったと思うのですけれど、介護を始められてから3ヶ月で、そのお母さんが急性心筋梗塞で亡くなってしまいました。そうすると、患者さんが在宅で生活していくための介護のキーパーソンがいなくなってしまったわけですから、その患者さんは在宅生活を続けることができなくなってしまいました。で、やむなく地域の病院に入院させてもらうことになったのですが、その後、この患者さんは癌になってしまったのです。癌がみつかったので、奥様は手術を望んで、あちこちの外科の先生に相談をされたわけですけれども、「ALSという病気で、しかも呼吸器がついている患者さんに、外科的処置の適応はありませんよ」という返事で、結局何処でも手術を受けることはできないまま、癌はどんどん大きくなって亡くなりました。

<理念の共有>
 それではALSの患者さんがノーマライゼーションを実現するためには、どうしたらよいのか? 私はやはり理念にこだわりたい。理念を徹底したいと思います。医学部の学生には、特に若いうちからこういう機会に触れて、身をもって理解してもらいたいと思います。看護婦さんや訪問看護婦さんや難病ヘルパーさんのために講演に行った時にも、必ずこういう話をすることにしています。沢山の専門職がチームを作って、どの人も自分だけでできるという領域では決してないので、沢山の人がチームを作って協力し合って、それぞれが専門職というのであれば、自分の専門性を生かして、チームを作って初めて、協力して初めて、一人の患者さんとその周りの家族の方が地域でノーマライズできるということなのです。ですから、そこに関わる人たちには、少なくとも同じ理念を共有していてほしいと。
 もう一つ大事なことは、どうしても専門職、特に医療側は病気という立場で患者さんに接するので、患者さんが地域で生活しているということを忘れがちだということです。生活の主体者である患者さんの生活を支える、そのご家族の生活を支えるという視点が必要です。それは病気を直そうということだけでは、到底及ばない領域です。そういう視点を是非持ってもらいたいと思います。

 最近ここ何年か、私が行政の方からよく言われるのは、理念については法律まで作ってしまいましたから、改めて言うまでもないということで、「言う事はわかりました。でも理想論ですよね」と。「理想はそうでしょうけれども、現実は厳しいんですよ。だから今回はできません。」あるいは「ここまでしかできません。」というお話になりがちなのです。だから仮に理念が認められたとしても、その先まだ社会一般の人たちに理解してもらい、納得してもらうには、さらに努力が必要だというふうに感じています。
 もう一つ最近良く出てくる議論は、医療資源の再配分ということです。この国の医療資源には限りあるわけですから、これをどういうふうに配分するかという議論が必要なんですね。ALS、あるいは筋ジストロフィーの患者さんが在宅で生活しようという時には、非常に沢山のコストが掛かります。そのコストは、この国の医療資源の配分の中で、どうなんでしょうか? 不当に沢山かかるのでしょうか? そういう問いかけに対しても、答えを用意しておかなければいけません。私たちがしていることは、保険診療の枠の中です。在宅で呼吸器をつけることは、保険診療として認められていることで、当然、現在認められた枠の中で行われているわけですけれども、それでもそういうことを制限なく続けていくことが費用対効果という観点からみると適切ではない、という批判を受けることが時々あります。
 ALSの患者さんたちが地域で当たり前に生活をするためには、まだまだ沢山の問題を解決しなければならない状況にあるのです。

<結び>
 今日私がお話をしている内容の要約はパンフレットの中に入れてあります。そこに紹介してある患者さんのメッセージをお伝えして、私の話を終わりにしようと思うのですけれど、これは先程お話した栃木県の患者さんです。患者さんはトーキングエイドという器械を使うことができました。左の足の親指がちょっとだけ動くんです。それでトーキングエイドを動かして、これだけの文章を書いてくれました。おそらく、1週間かもっとかもしれませんが、時間がかかっていると思います。平仮名がずっと続いた文章だったので、句読点を打ったのは私です。これをご紹介させていただきたいと思います。
 「きょうはおいそがしいところ、わたしのためにおあつまりいただきましてありがとうございました。わたしはじぶんでできるのは、まばたきとひだりのあしのおやゆびをすこしうごかすことだけです。てもあしもじぶんのいしではすこしもうごかすことはできません。でもげんきです。たまにかぜをひくくらいです。これもわたしをかいごしてくださるみなさまのおかげだとこころからかんしゃしています。」
 この先です。皆さんに見て頂きたいのはこの先です。
 「こんなからだでみなさんにめいわくをかけながらでも、わたしはうちにいたいのです。あさしんぶんをよみ、いろいろなたべもののにおいをたのしみ、かぞくとかいわやけんかをし、てれびをみて、きせつをはだでかんじることができる、ふつうのひとにはなんでもない、あたりまえのへいぼんなせいかつをすることがわたしのしあわせです。」
 決して特別のことをしたいということではないのです。この患者さんにとっては、健常者には何でもない、当たり前のこと、でもこの患者さんにとっては、これが望み、これが希望で、これが実現できるためには、ということで全てが始まったわけです。こういう希望を皆さん一人一人が意思表示されて、その希望が実現できるように、患者さんとそのご家族を核として、その周りに応援団が輪を作って、その目的の実現のために努力をしていく、ノーマライゼーションの実現のために努力をしていく。それがきっと、この国の社会をより住みよいものに変えていくんだと。これは私の確信なんです。そういう世の中になったらよいと思っています。

 今日会場にお越しの皆さんは今まで、本当に頭の下がる努力をしてこられた方ばかりですし、実は栃木からも患者さんが来てこられていて、5年ぶりにお会いして、大変うれしい思いを致しました。これからも残念ながら、皆さんの活動が必要なのだと思います。是非、皆さんお元気で、これからも当たり前の、普通の生活を目指して頑張っていただきたいと思います。私たち医療者は皆さんの前に出ることは決してないわけですが、皆さんがそういう希望を持って、意思表示をされたのであれば、皆さんの後について、とことんお手伝いをするという立場で、毎日の診療にあたっていきたいと思っています。こういう基本的な考え方、理念を皆さんと共有していきたいと思います。このように考えて下さる仲間を少しずつでも増やしていきたいと思います。
 ということで大体予定の時間になりました。このあたりで私のお話を終わらせていただきたいと思います。どうも、ご静聴ありがとうございました。
(拍手)